福知山城は明智光秀が天正7(1579)年ごろにこの地に城を築いたことから始まります。城だけでなく市内には光秀を神として祀っている「御霊神社」や、光秀が治水のために整備したと伝わる「蛇ヶ端御藪(明智藪)」などが残っています。
天守閣の東側にある井戸は、直径2.5m、深さは50mを数えるなど、本丸の井戸としては日本有数の深さを誇ります。地下の水脈まで岩盤を掘り下げており、今も清らかな水をたたえています。
二ノ丸の登城口にあった銅門番所は、大正年間に天守台に移築され、天守閣の再建に伴い再び本丸跡に移転されました。城の歴史を語る貴重な建物です。
天守台から本丸にかけての石垣は野面積みという積み方で、400年以上の歳月を耐えてきたものです。また多くの五輪塔や宝篋印塔などの石造物が転用石として使われているのも特徴です。
○明智光秀が築城した城の中で、現在唯一、天守閣がある城
○北近畿で唯一、天守閣がある城
○京都府内で唯一、登れる天守閣がある城
○光秀時代の石垣が残る城
○全国初、再生可能エネルギー100%の城
(夜間ライトアップも含む)
※「お城博士・千田嘉博さんが語る、福知山城の見どころ」もご覧ください。
「明智光秀肖像画」(岸和田市本徳寺所蔵)
明智光秀は非常に謎の多い人物です。生年は享禄元(1528)年とも永正13(1516)年ともいわれますが、詳細は不明です。生誕地についても美濃国可児郡とも恵那郡ともいわれますが、判然としません。光秀が歴史の表舞台に登場するのは、永禄12(1569)年頃、光秀が織田信長に仕え始めて以降になります。
織田信長の家臣として、光秀は京都の統治や比叡山延暦寺攻めなどで功績をあげ、織田家有数の重臣となります。天正3年(1575)織田信長から丹波攻略を命じられた光秀は、丹波国人衆の大半を味方につけて、宇津城に拠る宇津氏や氷上郡に本拠を構える、赤井・荻野氏などを攻めます。ところが天正4年(1576)1月になって突如波多野秀治が離反し、光秀は敗走します。その後は口丹波から反勢力の城郭を攻略しながら、八上城に迫り籠城する波多野氏を半年以上に及ぶ攻囲戦の末、天正7年(1579)6月になって陥落させました。その後、鬼ケ城や黒井城などを相次いで落城させ、ついに丹波を平定しました。そして信長から「その名誉は天下に比類なし」と高い評価と称賛を得て、丹波国の支配を任されました。
丹波支配にあたり、福知山後に城を築き、城代として娘婿である明智秀満を入れました。また光秀は短い統治期間のなかで、築城とあわせて地子銭の免除や治水工事を行うなど善政を行ったと伝えられます。光秀はほどなく、「本能寺の変」を引き起こし、「山崎合戦」の後、悲劇的な最期を迎えますが、福知山の民衆は光秀の事績を忘れることなく信奉し、「名君」として現在でも親しまれています。
※「明智光秀とは」もご覧ください。
― 静岡大学名誉教授 小和田哲男さん
光秀は信長家臣団の中で、初めて一国一城の主となった武将です。信長は譜代門閥主義だった当時の常識を破り、光秀や秀吉を能力本位で抜擢。光秀は「仕事が早く、成果を上げることができる男」と見られていたのでしょう。 天正3(1575)年、丹波攻めを命じられた光秀は、苦難の末、黒井城を落とし丹波を平定。その戦功が抜群だったと評価されました。信長主催の軍事パレードで総括を任されるなど、家臣の中で一番期待を寄せられていた彼が、なぜ本能寺の変を起こしたのでしょうか。
本能寺の変の真相については大まかに50の原因説が挙げられています。「怨恨説」、「野望説」、「黒幕説」などが多い中、私が唱えるのは「非道阻止説(暴君討伐説)」です。本能寺の変を起こした天正10年6月2日付けの「信長と信忠の悪行は天下の妨げだから討ち果たした」と光秀が記したとされる文書(写し)は、彼の心情を表しているのではないでしょうか。
光秀の文書は写しも含め180通ほどしかありません。その何通かは、けがをした家臣を見舞う内容です。薬を送ったと分かる手紙まであります。部下の供養を寺に依頼する文書や、妻・熙子の葬儀に参列したという当時としてはあり得ないエピソードからは、身分の分け隔てをしない彼の人間性を感じます。そこに本能寺の変の真相に近づく手がかりがあるのではと思ってしまいます。
小和田哲男(おわだ・てつお)
昭和19(1944)年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。戦国時代史研究の第一人者。「麒麟がくる」など、NHK大河ドラマでも数多くの時代考証を担当。NHK「歴史秘話ヒストリア」やEテレ「知恵泉」など歴史番組でのわかりやすい解説に定評がある。また、戦国武将に関する著書多数。
※「本能寺の変 原因説50 総選挙」もご覧ください。
※詳しくは「福知山光秀ガイドブック」をご覧ください。
~城下町を巡ろう!福知山はスイーツと肉のまち~
福知山市が属する丹波地方は、京都府と兵庫県にまたがる自然に囲まれた実り豊かな地域。定番のスイーツはもちろん、地元食材にこだわったスイーツを味わうのも楽しみ方の一つ。
毎年10月には市内外のスイーツを集めた「スイーツフェスティバル」を開催。
※詳しくは「福知山スイーツマップ」をご覧ください。
かつて西日本三大家畜市場の一つを有し、食肉流通を支えていた福知山市。いまでも人口10万人あたりの焼肉店数は22.86軒にのぼる。毎年10月には市内外の肉グルメを集めた「MEET×MEATフェスティバル」を開催。
※詳しくは「肉MAP」をご覧ください。
明智光秀が築いた城下町・福知山をガイドがご案内します。お気軽にご利用ください。
受付 | 福知山観光案内所(福知山観光協会) 〒620-0045 京都府福知山市駅前町439 (JR福知山駅北口すぐ) |
内容/ 料金 |
福知山城 1,000円 福知山城と市内観光(半日) 2,000円 など ※ご希望の時間・見学場所に応じてガイド可能です |
申込先 | 福知山観光案内所(福知山観光協会) 午前9時~午後6時 (2021年度は年中無休) 電話番号:0773-22-2228 FAX番号:0773-24-4440 dokkoise@pluto.plala.or.jp |
販売 | 福知山城おみやげ処 〒620-0035 京都府福知山市字岡ノ32-64 (福知山城ふもと/佐藤太清記念美術館の前 |
電話 | 電話番号:0773-45-8505 |
営業時間 | 午前10時~午後4時 定休日:毎週火曜日 |
販売 | 福知山観光案内所(福知山観光協会) 〒620-0045 京都府福知山市駅前町439 (JR福知山駅北口すぐ) |
電話 FAX |
電話番号:0773-22-2228 FAX番号:0773-24-4440 |
営業時間 | 午前9時~午後6時 (2021年度は年中無休) |
その他 | ・レンタサイクル ・荷物一時預かり ・モバイルバッテリーレンタルなども対応 |
常に水害に見舞われていた城下町を守るため、光秀が築いたとされる藪。かつては、おおよそ500m、幅10から30mに及びましたが、現在は北端が残るのみで、野鳥の営巣地としても知られています。
光秀公を祭神としてまつる神社。家中軍法ほか2通の明智光秀書状が社宝として伝わっています。
福知山市北部の古刹。明智光秀、秀満が竹木伐採や狼藉を禁じた文書が伝わっています。
光秀が丹波を平定した際、住職が光秀と同じく美濃(岐阜県)出身だったために存続した寺院。文治3(1187)年、運慶作と伝わる木造金剛力士像が残っています。
天橋立に向かう光秀や茶人の津田宗及らの一行の接待を細川幽斎の家臣、上原福寿軒が行ったところと言われています。
明智光秀による丹波攻略戦末期の舞台。山頂には現在でも山城遺構を残しています。
光秀と戦った塩見氏が城主だった城。福知山城跡から由良川を挟んだ対岸に位置しています。現在は城山公園として整備されています。
光秀の丹波攻略時に黒井城主だった荻野直正(赤井直正)の被官・西山蟻之助が在城したと伝わっています。
光秀が陣所を築いたとされ、「西の古城」として伝わっています。
光秀が信長に推挙した阿能の局という人物の供養塔と伝わっています。阿能の局は本能寺の変後、故郷である同地に戻ってきたといいます。
福知山城で撮った写真や動画、訪れた感想などをハッシュタグ『 #いがいと福知山 』をつけて発信してください!福知山城の公式SNSで紹介されるかも!?