弥生時代の土器が発掘されるなど、古くから利用されていた由良川に突き出す丘陵の上に築かれた城、福知山城。織田信長の命を受けて天正7(1579)年に丹波を平定した明智光秀が、西国攻略の拠点として城と町を築き、明智の「智」の字を用いて「福智山」と名付けたと伝えられる。
築城後、光秀は初代城主となり娘婿の明智秀満(左馬助)を城代に置く。その後、城主が度々変わるなか城の改修と増築が進められ、大天守・小天守連立式の現在の福知山城の姿は、江戸時代初期にはほぼ完成していたと考えられる。そして、明治6(1873)年の廃城令以降、天守は失われ石垣などのみとなった。
現在の城は昭和61(1986)年に「瓦一枚運動」によって再建されたものだが、光秀はどのような福知山の未来像を思い描いて築城し、城下町整備を行ったのだろうか。そして、かつての福知山城はどのような姿だったのだろうか。3人の識者に話を聞いた。
― 千田嘉博さん(城郭考古学者)
「なぜ光秀は福知山に城を。これは戦いに勝ったその先を見ていたからだと思います」と語るのは城郭考古学者の千田嘉博さん。
「福知山を北近畿の要衝にするというビジョンが光秀にはあった。防御を最優先した山城でなく、城下と一体になった平山城を築いて人と物を福知山に集め、地域の中心を生み出す大切さを見抜いていたのでしょう」と光秀の統治に想像を働かせる。
千田さんによると、光秀は、歌やお茶をたしなむなど文化力に優れており、織田信長の家臣のなかで総合力の高さでは突出した武将だった。その卓越した能力ゆえに、信長に見出され、異例の出世を遂げたのだ。
「信長が天下統一を目指すにあたって、京都、丹波を抑えていた光秀の力は大きかった」と織田家中での光秀の役割を分析する。そして光秀は信長絶頂期に福知山城をつくった。光秀の家臣統治も画期的で、本能寺の変の1年前に制定した「明智光秀家中軍法」に表れていると千田さんは解説する。
「戦闘方法を定め、禄高、つまり給料以上の軍役を求めない。このおかげで家臣は疲弊せず戦うことができた。また村や町も適切な負担で暮らせました。これはまさにSDGs、持続可能な戦国の働き方改革。光秀は政治家としても一流でした」と光秀の政治力が卓越していたと絶賛する。
「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)
さらに、光秀の性格は福知山城の築城過程からも垣間見ることができるという。「見どころは石垣。自然石をそのまま積み上げた野面積みを見ると、戦国時代に遡るものだとわかります。しかも石材は、墓石や石仏などの転用石を含んでいます。光秀が合理的な精神をもった武将だったのを物語ります。改築の跡も残っており、天正時代の石垣が良好な状態で現存するのはここだけ。学術的な価値はとても高い」と千田さんは熱弁を振るう。
赤い矢印が2階に設けた石落とし
黄色い矢印が改築の跡(右が天正時代)
そして、歴史だけでなく城自体も楽しんでほしいとして、「カッコいいのが、石落とし。石垣を登ってくる敵を真上から攻撃するための仕掛けですが、これを2階に仕込んだ。通常は1階の屋根下の壁部分にあるので、誰が見ても分かってしまう。一見、無いように見せかけて、近づいたらやられてしまう。知的な城ですね」と話し、笑顔を浮かべる。
さらに、千田さんは「福知山城は駅からも近く、すぐに登れることも特徴。訪れたら、城と町が一体化していることに感動します」と光秀が領民と一体となったまちづくりを行っていたこと、そして、その精神が今も受け継がれていることを指摘する。
千田嘉博(せんだ・よしひろ)
昭和38(1963)年、愛知県生まれ。城郭考古学者・博士(文学)。名古屋市見晴台考古資料館学芸員、国立歴史民俗博物館助教授などを経て、奈良大学文学部教授。日本と世界の城を城郭考古学の立場から研究。平成27(2015)年に第28回濱田青陵賞を受賞。歴史ドラマの城郭考証なども行う。著書に 『織豊系城郭の形成』(東京大学出版会)、『信長の城』(岩波新書)、『戦国の城を歩く』(ちくま学芸文庫)、『石垣の名城完全ガイド』(講談社)など。
― 梅林秀行さん(京都高低差崖会崖長)
福知山城、城下町の基礎を築いた明智光秀。江戸時代には神として町人に信仰されたり、昭和以降にも治水伝承が生まれた。福知山はどのようなまちで、光秀とはいったいどんな存在なのだろうか。
京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんは、「福知山の特徴は、ヒト、モノ、カネ、情報を掌握しやすい、流通重視の都市であるところ。由良川などから水流が集まる福知山の立地は、水害が頻発する環境でもあります。しかし福知山をはじめとした全国各地の近世城下町は、水害などの環境リスクを踏まえたうえで、それを上回る利点を水運ネットワーク機能に求めたのでしょう。加えて、それ以前に栄えた中世都市とは別の場所に、新都市をいきなり建設したところも近世城下町の共通点。近世城下町とは、環境リスクが高い土地に、中世都市とは異なる原理で建設された、新時代のニュータウンなのです」と福知山を近世という新時代の“ニュータウン”と位置付ける。
撮影:梅林秀行
梅林さんは「長方形のグリッドプランを、由良川の自然堤防上に整然と配置した町人町。それとは異なる軸線でゆったりと敷地が配置された武家町。寺院を集めた寺町。市街地の外周を囲む堀・土塁である惣構。身分ごとの居住区配置とそれらを全周する惣構という、近世城下町の特徴が、福知山には全て揃っています」と現在も近世のまちづくりが残っていると指摘する。
提供:梅林秀行
さらに、「福知山の城下町自体は光秀の時代ではなく、おそらくその後の豊臣秀吉の時代以降に建設されたと考えられます。光秀は福知山城を築いたところで最期を迎え、まちづくりについて彼の関与は不明と言わざるを得ません。しかし重要な点は、福知山の始祖神として光秀が後に祀られたという経緯です。福知山城下町の建設が落ち着いた江戸時代中期初頭が画期でした。この時期に福知山の都市住民が光秀を神として祀り、自分たちのアイデンティティの源としての光秀像を育んでいったのです」と「始祖神としての光秀」の存在を解説する。
光秀が亡くなって100年以上が経ったころ(西暦1700年頃)、由良川水害の防災目的で川沿いに堤防が整備され、さらに、江戸時代以降、平和な社会が到来して福知山の住民増加が生じた結果、市街地で大火事が多発し、防火対策として市街地の中心に火除地として「広小路」が新たに建設された。
撮影:梅林秀行
「興味深い事実として、このような都市インフラ整備が落ち着いた時期に、福知山に新たに生まれたシンボルである広小路に、光秀を神として祀る御霊神社が勧請されたことがあります。まちづくりが整い、都市住民が何世代にもわたって定着した江戸時代中期初頭に、“福知山人”というアイデンティティが醸成されたのでは。その際に、自分たちの生活世界を創造した神として光秀が再評価されたと考えられます」と梅林さんは語る。
江戸時代の価値観として、本能寺の変で主君織田信長に反逆した光秀は、「謀反人」として悲劇の主人公、シンボリックな存在として再認識され、現代に伝わる物語へとつながっていく。「事実と物語にはズレがありますが、むしろこれが肝だと思っています。『自分たちの町はこうありたい』。300年以上も続く人々のポジティブな思いがそこにあるからです」と光秀神話が現在まで福知山に息づいていることを梅林さんは見逃さない。
歴史に想いを馳せながら福知山城の天守から、治水のために光秀が築いたと昭和以降に伝承が生まれた明智藪(蛇ケ端御藪)に至る。そして真っ直ぐに伸びた新町商店街へと梅林さんは歩を進めていく。
「私はこの通りが大好きです。直線道路も近世城下町の特徴で、計画的に整然と配置された道路群は、福知山が近世ニュータウンだったなによりの証拠でしょう。江戸時代の福知山は南北にのびる直線道路の先に福知山城天守が置かれていました。そして近代以降、信仰の拠点である御霊神社が広小路という東西道路の端に移転したことによって、南北軸の福知山城と東西軸の御霊神社という、どちらも光秀に関わるランドマークが現代福知山の二大センターになったのです」。
この町の2つの中心、福知山城と御霊神社には光秀の気配を感じる。
撮影:梅林秀行
梅林秀行(うめばやし・ひでゆき)
昭和48(1973)年、名古屋市生まれ。京都高低差崖会(がっかい)崖長(がけちょう)。京都ノートルダム女子大学非常勤講師。なにげない地面の高低差をはじめ、まちなみや人びとの集合離散など、様々な視点からランドスケープを読み解く。NHK『ブラタモリ』『歴史秘話ヒストリア』など歴史地理に関するテレビ番組に多数出演。著書に『京都の凸凹を歩く 』(青幻舎)など。「まちが居場所に」をモットーに、散歩から感じた物語を大切にしている。
― 島充さん(城郭模型作家)
光秀神話の中心であり、まちのシンボルである福知山城天守は明治時代に失われた。市民らから寄附を募った「瓦一枚運動」などを経て、江戸時代の絵図をもとに昭和61(1986)年に再建されたが、当時は古写真資料がなく、あまりにも城郭建築の常識から外れているため復元に疑問の声も出ていた。
「福知山城に間違いない!やっぱりこの形だった」と明治時代のものと考えられる古写真を手に喜びを表現するのは城郭模型作家の島充さん。「古写真を見つけた時には、興奮して身体が震えた。光秀が創建した天守と今の天守閣は大枠において間違いはなく、藤岡通夫博士が設計した復元天守閣は再評価されるべきです」と声高に語る。
「福知山城天守古写真」提供:島充
島さんは模型の題材になる写真をオークションサイトで探していたところ、福知山城天守の古写真と思われる写真を発見、落札。江戸時代の平面図や石垣測量図、昭和再建時の図面などと総合的に分析して実際に模型を作成した。
「現在の天守閣と比較した違いの1つは、大屋根の勾配の緩やかさ。古写真の天守の屋根は寺院のような繊細な曲線で、古風な印象を受けます。平面には直角がなく、いろんな工夫が見て取れます。厳めしさよりも優美さ。この屋根は財力や時間の余裕がなければ作り出せない曲線で、石垣の転用石のようにもともとあった寺院の部材を転用材として運んだのでは、とも考えました」と、写真を基にした検討模型を作り上げて発見した特徴を説明する。
複雑で東西南北、どこから見ても形が違い、左右非対称。西、東側から見ると大きく見えるが、北、南側からだと細長い屋形舟のようにも見える。東西の景観を意識していたと考えられるという。「やはり福知山城の天守はユニーク。常識にとらわれない複雑であり自由自在なデザインは唯一無二。そして、確かなことは、明治初期、もうすぐ壊される運命にある城を見て、撮影した人がいる」と歴史に加え、城が明治時代にも愛されていたことが写真からうかがえると話す。
「いったん復元が完了すると、学術研究の一つの成果がかたちとして現れるため、それ以上探求が進まないことがある」と語る島さん。「新しい資料の発見によってさらに研究を上積みしていかなければならない。写真は失われた建物それ自体を記録したこの上ない資料で、より鮮明なものが見つかるかもしれない。福知山の新しいシンボルとして生まれた昭和建築としての天守閣を受け継ぐと同時に、本来の天守のすがたの探求がさらに進んでほしい」と自らが作った模型を手に福知山城を眺めていた。
福知山城天守閣と島充さん作成の天守模型
島充(しま・みつる)
昭和57(1982)年、福岡県生まれ。城郭・古建築模型作家。慶應義塾大学文学部美学美術史学専攻卒業。幼少より日本の伝統建築空間に魅せられ、平成27(2015) 年より日本の城郭および古建築模型を専門に製作する作家として活動。展示模型、メディア向け模型、鑑賞模型から創作模型まで幅広く手掛ける。自らの現地調査や資料考証に基づいた臨場感ある作風には定評が高い。著書に『熊本城超絶再現記 巨大ジオラマでよみがえる本丸の全貌』(新紀元社)。
福知山城で撮った写真や動画、訪れた感想などをハッシュタグ『 #いがいと福知山 』をつけて発信してください!福知山城の公式SNSで紹介されるかも!?